静寂主義

ビザンティン教会はひとりのアウグスティヌスもひとりのトマス・アクィナスも生み出さなかった。だが神学が不毛であったというわけではない。

森安達也「世界宗教史叢書3 キリスト教史 Ⅲ」第5章 3 神学と神秘主義

 神秘主義は独特の強さをもっている。それは書物を中心とした思弁的な神学ではなく、修道院での修行生活などから生まれる神学である。

新神学者シメオン。(Public Domain)

 東方において神秘神学を確立したのは、十世紀の新神学者シメオンだ。彼は紆余曲折をへてコンスタンティノープルのストゥディオス修道院(Monastery of Stoudios)1に入り、「神の光」との交わりを成し遂げた。
 ここのいう「神の光」は、主イエスの変容の際に放たれた光、すなわち「永遠の光(uncreated light)2」と同一のものであるようだ。このような、個人的経験によって神に接近しようとする立場は当時の教会当局の許すところではなく、彼は追放されたが、のちに結局は聖人とされている。

 さて、静寂主義は、このシメオンが体現するような東方の神秘主義の伝統から生まれたものだ。その中心となったのは、アトス山の修道士たちだった。

アトス山の位置。TUBS, CC 表示-継承 3.0

 エーゲ海の北岸に位置するアトス山には、古くから隠者たちが草庵を結んで住み着いていたようである。修道院群の起源は紀元49年の生神女マリア遭難にさかのぼるという逸話もあるが、実際には9世紀ごろから修道院が建設されるようになったらしい。現代においても、アトス山には20の修道院が散在している。
 アトス山は現在でも大幅な自治をゆるされ(アトス自治修道士共和国)、バチカン市国ほどではないにせよ宗教国家のような様相を呈している。この地域は現代でもギリシャ本土とは隔絶されており、船でしか入ることができない。観光地としても有名で、世界遺産にも認定されている。
 またアトス山は女人禁制の山であることでも有名である。女性は船で沿岸から見学することしかできず、飼われている家畜もオスだけであるという徹底ぶりのようだ。

 いよいよ静寂主義の詳細について述べよう。これは神に近づくための方法論で、アトス山で盛んに行われるようになったものだ。まずヨガのような肉体統御の訓練により心の平静を得る。独房のような部屋の片隅で、あごひげを胸に押し当てるようにしてへそを凝視する姿勢をとり、また「イエスの祈り」を繰り返し唱えるのだという。イエスの祈りというのは正教会の奉神礼でも唱えられる「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人(ざいにん)を憐れみ給え。」のことだ。これの短縮バージョンが「主、憐れめよキリエ・エレイソン」であり、こちらも用いられたという3。これらによって、神の実体を直接知覚することができるようになると彼らは主張する。
 このような主張にはキリスト教の正統信仰から見て問題がある。人間が神の実体を目撃できる、合一できるという主張は、神を不可視なものと可視なものに分離することや、創造主と被造物の区別を曖昧にすることにつながるからだ。のちにテサロニケの大主教を務めたグレゴリオス・パラマスは神を実体とエネルゲイアにわけ、神の実体を人が知覚することは不可能だとしても、「永遠の光」は神のエネルゲイアのあらわれであるから人間もそれを見ることができるとした。

アトス山の全景。(Public Domain)

 このような手法に対しては当然批判がくわえられる。政治上の利害も絡んで、静寂主義は14世紀東方教会の重要問題となった。主要な反対者はカラブリアのバルラアムであり、他方、その擁護者は先述したグレゴリオス・パラマスであった。七回の公会議4を経て、途中パラマスが投獄されたりもしたが、けっきょく静寂主義は正教会の公認を得た。一方カトリックの側は、静寂主義は異端であると宣言し、これによって正教会での静寂主義の立場はかえって確固たるものとなった。

 グレゴリオス・パラマスはビザンティン神学の最高の水準ないし最後の輝きを示すと言われる。このような神秘思想を精密に理論化して説明するのは不可能である。だが、パラマスの静寂主義理論は東方キリスト教のキリスト論のひとつの傾向を代表している。すなわち、神がこの世に実在するものである以上、人間が聖霊の恩寵を得て、この神に無限に近づく、それも思弁的にではなく感覚的に近づくことが可能のはずである、という信念である。その可能性は、神がひとり子キリストを人間としてこの世に遣わしたという動かしがたい事実によって、人間だれにでも開かれていることは疑いない。

森安達也「世界宗教史叢書3 キリスト教史 Ⅲ」第5章 3 神学と神秘主義

 参考文献

  1. 吉田一郎「国マニア」
  2. 阿部善彦「息」の宗教的人間学―心身二元論的人間観を超えた身体論的宗教学の可能性に向けて」
  3. 森安達也「世界宗教史叢書3 キリスト教史 Ⅲ」

  1. この修道院における生活は後に述べるアトス山の模範になったという。
  2. なぜuncreatedが永遠を意味するのだろうか? 辞書を見てみたところ、creationによらず作られたのだから永遠だという、わかるようなわからないような理屈からきているっぽい。「非創造の光」ではますますおかしいので、この訳であっているとは思う。
  3. [阿部]。
  4. これらは正教会だけが認めているもの。

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