聖書の読解
説明にあたって、まず、「キリスト教のどこに去勢の教えなどあるのか」という疑問を解決せねばならない。聖書の章句に去勢の根拠をもとめるならば、まずマタイによる福音書 5:29 -30;
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
マタイによる福音書 5:29 -30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
があげられる。これは素直に読むならば姦淫の罪を比喩をもちいて戒めている、と解するべきだろう。しかし、あえて直接的に、罪を犯す部位を切り落とせという命令ととらえることもできる。からだの一部(去勢派の解釈においては性器)だけが地獄に落ち込むほうがましというわけだ。
他にも、マタイ19.12;
というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。
マタイによる福音書19:12
は、結婚を自然なものとした上で事情により結婚できない人々を列挙した箇所だが、去勢をある程度許可したものと曲解することができる。この「独身者」というのは “eunuchs” の訳語で、去勢者と訳すのがより直訳にちかい。
スコプツィは独自の神学解釈をもっており、キリストも使徒も去勢者であったとみなしていた。また、正教会においては人類の原罪はイエスによって贖われたとされるが、セリヴァノフは、人類の原罪は性的関心そのものであって、人類は去勢によって無性の天使のようなものへとかえされるべきだと考えていた。また去勢派は、イエスの教えの根本にも去勢があったのだが、それは十分に人々に伝わらず、実現にいたらなかったとしていた。
官能に対する怒り
ローザノフの指摘によれば、セリヴァノフの去勢モチーフの根底となったものは、おそらく黙示録14章冒頭のヴィジョンであったろう、という。
なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
…彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
ヨハネの黙示録14:1-5
彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。
「十四万四千人の人々」というくだりは、キリスト教由来のカルトにおいてしばしば引用される。たとえばエホバの証人もこの数にこだわっている。そしてこの十四万四千人は、「純潔な者」たちであった。セリヴァノフは去勢された純潔者だけの世界を夢見て、黙示録のこの箇所を読んだのだろうか。彼は官能へと怒りの渇望という武器をもった、ある種の宗教的天才だった。